U 禅門学校 〜参禅の手引き〜


1・坐禅とは何か  〜基礎から学びたい方へ〜

古来より坐禅は、「安楽の法門」と呼ばれています。難しくなく、だれにでもできる楽な修行だからです。ところがいざ坐禅を習う方には、戸惑うことが少なくありません。指導者によって、教え方、作法、心得に違いがあるからです。参禅にくる人々の中には、臨済宗で習った方もあります。曹洞宗でさえ、お師家さま(禅の正しい指導者)によって指導法が異なるため、混乱してしまうこともあります。
そこで原点にかえって、坐禅の基礎を学びたいと思います。これはあくまでも私が、祖師の言葉をまとめ、取捨選択し、選び抜いた坐禅法です。ひとつの道標としてください。特定のお師家さまにとらわれないようにします。〜系統という型にはまらないようにするためです。一つの僧堂の家風に限定しないようにもします。もっと大きく捉えれば、宗門(曹洞宗)の坐禅という宗派の枠にもこだわりません。あえていえば、「正伝の坐禅」の正体を見極めようとするものです。


2・何が本分か  〜世間との関わりをどうするか〜

法を現す本分が坐禅であることを、私たちは頭で、理屈ではわかっているつもりです。それならば、みな坐禅をしているかというと、否です。それどころか、私たちは坐禅について、外から眺めるだけ、他人に勧めるだけ、または「自分はしないから、悪いな、よそをあたってくれ」と他へまわすだけです。
「禅定家」という言葉があります。ときに畏れ敬われ、ときに特別視、異端視され、ときには偏見を持たれるようです。
禅定家というのは、おかしな言葉ですね。芸術家、画家、音楽家、彫刻家、建築家、書道家、小説家、農家、商家、探検家、愛妻家というように、○○家というとき、○○がその人の本分で、「家」はそれを専らにする人という意味です。そこに変人扱いという気持ちがあるでしょうか。禅僧は禅定家が当たり前なので、禅定家という枠付けも言葉も、特別に使う必要はないのです。
「最悪の坐禅」という言葉を耳にします。
社会がどんな状態であっても、世間がなにを望んでいても、世界の人々が飢餓、貧困、差別、戦争、暴力、病気によって苦しんでいても、ただ、己が勤めである自己の救済を目指し、ひたすら坐禅をするという姿勢に対しての嘲り、批判として使われるようです。
嵐山光三郎さんの『死ぬための教養』(新潮新書 2003年4月発行)には、つぎのような言葉がありました。
「死の恐怖から逃れるための最大の処方箋だった宗教が力を失った今、……(略)……。世界で起こっている戦争や、爆破テロ事件に対して、宗教は人々を救済しえたでしょうか。いまほど「宗教の無力」を思い知らされた時代はないのです。私が本書で試みようとしているのは『宗教にたよらない、死ぬための教養』であります。」
この文章の「宗教」を「禅」に置き換えるとどうでしょうか。禅は、世界中で頻発する痛ましい事件に対して無力なのでしょうか。坐禅は、奉仕活動、ボランティア活動と対極をなし、社会性とは無縁のものなのでしょうか。
坐禅の力が衰退したといわれるとともに、宗門のメディア、広報活動が工夫され、耳目、五感を刺激する新しい教化方法、布教伝道のスタイルが開発されてきました。
「禅僧よ、いつまでも坐蒲の上だけに居座るな、町へ出よ」という呼び掛けです。あたかも、故寺山修司さんの詩集「書を捨てよ、町へ出よう」 の題名のようです。


尊者、坐に儼然(げんぜん)たり。魔事随(したが)って滅す。『伝光録』(第十三祖 迦毘摩羅尊者)
(泰然と坐禅するとき……、魔物はどこかへ消え失せる)
坐禅は、独りよがり、自己満足の自慰行為ではありません。勝友(勝れた仲間)とともに行ずる修行です。そのよき例が摂心会です。


殊に先師二代の示し曰く、我弟子は獨住すべからず、設(たと)ひ得道せりとも叢林に修錬すべし。況や亦た參學の輩は一向獨住すべからず。是の制に背(そむ)かん者は吾門葉に非ずと。『伝光録』(第十四祖 龍樹尊者章)
(先師、永平寺2代の孤雲懐弉禅師は、つぎのようにお示しである。仏弟子は、独り住まいをするな。たとえ悟りを得ても、大衆の中で修行せよ。まして修行中の者は、決して独りで勤めてはいけない。このきまりにそむくのなら、永平寺門下とはいえない。)

大事なことは、正法興隆や布教伝道、「祖風を永く扇がん」ために坐禅をするのではなく、あくまでも禅のための坐禅でなくてはいけません。まして正法興隆とは、仏教書が売れることでも、法話集のビデオやテープが売れることでも、大イベントや、見上げるような大伽藍の造立でもありません。法にしたがい、正師について坐禅をつとめることなのです。

(つづく)



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