V 提唱録(ウェブ版『伝光録』)


今月号より『伝光録』本文の提唱に入る。
私は、主題(眼目)として、「戒」「法」「伝える」「映す」を挙げたい。ただし、この連載がいつまで続くか「露命は身よりももろし」(『正法眼蔵行持・上』)と考えると、独断でもっとも端的に表していると思われる章より、ご紹介する。


{構成と注意}
このウェブ版『伝光録』では、つぎの4種の構成をとる。
 1、主題本文
 2、悟りへの道程
 3、拈堤(瑩山禅師ご自身の主題解説)
 4、主題偈頌


※注意
本文中の「祖」とは、悟りへの道を示してくださった本師のこと。「師」とはその章の主人公。


『首章(しゅしょう)  釈迦牟尼佛』

【本則】《主題本文》
〈釋迦牟尼佛、明星を見て悟道して曰く、「我と大地有情と同時に成道す」。〉(原漢文)


(筆者意訳)
釈尊は、明星とひとつになった。(縁そのものになった。)悟ったので言葉に表した。
私は自己を忘れた。すべての存在が自己を忘れていた。道は因縁所生である。


【機縁】《悟りまでのいきさつ》
それ釋迦牟尼佛は、西天の日種姓(にっしゅうせい)なり。19歳にして子夜(しや)に城を踰(こ)へ、檀特山(だんとくせん)にして断髪す。それよりこのかた、苦行6年、遂(つい)に金剛座上(こんごうざじょう)に坐して、蛛網(しゅもう)を眉間(みけん)に入れ、鵲巣(さくそう)を頂上(ちょうじょう)に安じて、葦(あし)、坐をとほし、安住不動、6年端坐、30歳臘月8日(ろうげつようか)、明星(みょうじょう)の出しとき、忽(たちま)ち悟道、最初獅子吼(ししく)するに是言(このげん)あり。爾(しか)しより以来、49年、一日も獨居(どっきょ)することなく、暫時(ざんじ)も衆の為に、説法せざることなし。一衣一鉢欠くことなし。3百6十余会、時々に説法す。終に正法眼藏を摩訶迦葉(まかかしょう)に付囑(ふぞく)す。流伝(るでん)して今に及ぶ。実に梵漢和(ぼんかんわ)の三国に流伝して正法修行すること之(これ)を以て根本とす。彼(か)の一期(いちご)の行状、以(もっ)て遺弟の表準たり。設(たと)ひ32相、80種好を具足すると雖(いえど)も、必ず老比丘の形にして、人人(にんにん)にかはることなし。故に在世よりこのかた、正像末の三時、彼の法儀を慕(した)ふ者、佛の形儀(ぎょうぎ)をかたどり、仏の受用を受用して、行住坐臥、片時も自己を先とせざることなし。仏々祖々単伝し来たりて、正法断絶せず。今の因縁分明(ふんみょう)に指説(しせつ)す。設(たと)ひ49年、3百6十余会、指説すること異なりと雖も、種々因縁、譬諭言説(ひゆごんせつ)、この道理に過ぎず。


(筆者意訳)
釈尊は、西の国(現在のインド)の太陽族の子である。19歳(当時の釈尊の年齢はこう考えられていた)、子夜(しや−現在の午前零時頃)に、城をそっと抜け出し、檀特山(苦行林の呼び名だとされてきた)で、髪を下ろした。どうしたら本当の満足が得られるかと、6年のすさまじい苦行をなさった。ついに菩提樹下において、悟りを開くまではこの場所から離れないという大決心をして坐禅を組む(金剛座)。その坐禅は、左右の眉毛の間に蜘蛛の巣が張り、頭の上にカササギが巣を造り、葦の莖が坐禅の脚の間から伸びるほどであった。坐禅と一つになり、6年すわった。(当時の伝記ではこういう言い伝えであった)30歳の12月8日、金星が明けの空に現れたとき、たちまち悟った。釈尊がはじめておっしゃったのが、このお言葉《主題本文》である。それ以来49年、一日も一人でとどまることなく、一時も、人々のため(識心で苦労している人々に、識心を捨てさせる)に説法をしないという時がなかった。そして一つの衣、一つの鉢だけの生活を通した。360回以上、その時に応じて説法した。ついに「正法眼蔵」(自己を忘れる道)を摩訶迦葉に伝え、それがいままで、正しく伝わってきた。まさに、インド、中国、日本という三つの国に伝わり、(自己を忘れる道の)修行の根本となった。(意訳は次回に続く)


【提唱】《解説》
謂(いわ)ゆる我とは釈迦牟尼仏に非ず。釈迦牟尼仏も、この我より出生し来る。唯(ただ)釈迦牟尼仏出生するのみに非ず、大地有情も皆是れより出生す。大綱(だいこう)を挙ぐるとき、衆目(しゅもく)悉(ことごと)く挙(あ)がるが如く、釈迦牟尼仏成道するとき、大地有情も成道す。唯(ただ)大地有情成道するにのみに非ず、三世諸佛も皆成道す。恁麼(いんも)なりと雖も、釈迦牟尼仏に於て、成道の思ひをなすことなし。大地有情の外に、釈迦牟尼仏を見ること勿(なか)れ。設(たと)ひ山河大地、森羅万像、森々たりと雖も、悉(ことごと)く是れ瞿曇(ぐどん)の眼晴裏(がんぜいり)を免がれず。汝等諸人(なんじらしょにん)また瞿曇の眼晴裏に立せり。唯(ただ)立せるのみに非ず、今の諸人に換却(かんきゃく)しをはれり。又瞿曇の眼晴、肉団子(にくだんす)となりて、人人の全身、個個壁立萬仞(ぜんしんここへきりゅうばんじん)せり。故に亘古亘今(ごうこごうこん)、明明(めいめい)たる眼晴、歴歴(れきれき)たる諸人と思ふこと勿(なか)れ。諸人即ち是れ瞿曇の眼晴なり、瞿曇即ち是れ諸人の全身なり。若し恁麼(いんも)ならば、何を呼でか、成道底の道理とせん。
且問(しゃもん)す大衆。瞿曇の諸人と与(とも)に成道するか、諸人の瞿曇と与に成道するか。若し諸人の瞿曇と与に成道すると言ひ、瞿曇の諸人と与に成道すると言はゞ、全く是れ瞿曇の成道にあらず。因(よっ)て成道底の道理となすべからず。成道の道理、親切に会(え)せんと思はゞ、瞿曇諸人、一時に払却(ほっきゃく)して、早く我なることを知るべし。我の与(よ)なる、大地有情なり。与の我なる、是れ瞿曇老漢に非ず。子細に点検し、子細に商量(しょうりょう)して、我を明らめ、与を知るべし。設ひ我を明らめたりといふとも、与を明らめずんば、亦一隻眼(いっせきがん)を失す。然(しかり)と雖(いえど)も、我と与と一般に非ず、両般に非ず。正に汝等の皮肉骨髄、尽く与なり。屋裏(おくり)の主人公是れ我なり。皮肉骨髄を帯せず、四大五蘊を帯せず。畢竟(ひっきょう)して言はば、庵中不死(あんちゅうふし)の人を識らんと欲せば、而今這(あにいまこ)の皮袋(ひたい)を離れんや。然れば大地有情の会(え)をなすべからず。設(たと)ひ春夏秋冬に転変し来りて、山河大地、時と与に異なりと雖も、知るべし是れ瞿曇老漢の揚眉瞬目(ようびしゅんもく)なる故に、万像之中独露身(ばんぞうしちゅうどくろしん)なるなり。撥(はつ)万像也、不撥(ふはつ)万像也。法眼曰(ほうげんいわ)く甚麼(なん)の撥不撥とか説かん。又地藏曰く、甚麼(なに)を喚(よん)でか万像と作(な)さん。然(しか)あれば、横参竪参(おうさんじゅさん)し、七通八達(しちつうはったつ)して、応に瞿曇の悟処(ごしょ)を明らめ、自己の成道を会すべし。恁麼の公案、子細(こうあんしさい)に見得し、一一に胸襟より流出して、前仏及び今時の人の語句をからず、次の請益の日を以て下語(あぎょ)説道理すべし。山僧亦、此一則下に卑語(ひご)を著けんことを思ふ。諸人聞かんと要すや。


【頌古】《悟りの境地を漢詩にあらわしたもの》
〈一枝(いっし)秀出(しゅうしゅつ)す老梅樹(ろうばいじゅ)、荊棘(けいきょく)時(とき)と築著(ちくじゃく)し來る。〉(原漢文)


『第三十四祖 弘済大師(青原行思)章』

【本則】
第三十四祖弘済大師、曹谿(そうけい)の会に参じ問いて曰く、当に何の所務(しょむ)か即ち階級に落ちざるべき。祖曰く、汝、曾て甚麼(いんも)をか作(な)し来る。師曰く、聖諦(しょうたい)も亦た為さず。祖曰く、何の階級にか落ちん。師曰く、聖諦すら尚を為さず、何の階級か之れ有らん。祖、深く之を器(き)とす。(原漢文)


(筆者意訳)
曹谿(そうけい)の(六祖)大鑑慧能(だいかんえのう)禅師といわれる方のところに、青原行思(せいげんぎょうし 673〜741)は、諮問(しもん)−お尋ね−をされた。
「どういうことをすると、階級に落ちるのでしょうか、落ちないのでしょうか。修行した結果、どういうことが悟りを得る、または迷い、邪見に落ちるのかをお答えください」という究極の問い。そしてどこにも落ちないとしたら、私の位置は、階級のどこにあるのでしょうかとたたみかける。
その問いに対して、六祖は、つぎのようにお答えになった。
〈汝曾(なんじかっ)て、甚麼(いかん)が作(な)し、来る〉
「おまえは、何をすると階級のどこにいるということを言うが、いままで、どういうことをやってきたのか。」と質問される。
師(青原行思)がいわれた。私は〈聖諦も亦、為さず〉
「仏法らしい、聖人の道らしい、立派そうな道は、一度も考えてみたこともない。」
筆者は、歩こうとすると、足が自然に出る。余分なものも、不足もない。あたりまえのことがあたりまえにあるということ。疲れてくると足が前にでない。これも余分も不足もなく、あたりまえのことがあたりまえにある。
いったん持病の腰痛になると、痛みのため、まったく歩けなくなる。このときには、歩けない状態に、余分も不足もない。このまま、ずっと歩けないのではと思うときもある。しかし(歩けないほどの痛みという)縁がつきると、歩けるという果が現れる。
「仏法らしい、聖人の道らしい、立派そうな道は、一度も考えてみたこともない。」
という言い方を師(青原行思)がしたので、初めて六祖が「仏法らしい、聖人の道らしい、立派そうな道は、一度も考えてみたこともないのなら、どんな階級に落ちるのかね。」こうお尋ねをした。
それに対して〈師(青原行思)曰く、聖諦すら尚為さず。何の階級か之、有らん。〉
「仏法らしい、聖人の道らしいものを考えるのが不必要であるのだから、どこにも、ここからここまで行かなければならないという階級など、あるはずがありません。」
このように師(青原行思)が、答えられたので、
「なるほど、どこにも階級、境地としての、ここからここまで、行かなければならないというような段階はなにもない。おまえのような境地で修行していきさえすれば、段階なしにズバッと、そのまますぐ満足できる世界に入れる。いや、そこが満足する世界だ。こやつは、ただものではないぞ。」ということを、六祖が感じられた。


【機縁】@
師は、吉州安城(きっしゅうあんじょう)、姓は、劉(りゅう)氏の子なり。幼歳(おさないとし)にして、出家し、群居(ぐんきょ)して道(みち)を論ずる毎(ごと)に師は唯黙然(ただもくねん)たり。後に曹溪(そうけい)の法席(ほうせき)を聞いて乃往(すなわちゆい)て参来(さんらい)す。問て曰く、当に何の所務(しょむ)か即ち階級に落ちざるべき。乃至(ないし)祖、深く之を器とす。


(筆者意訳)
師(青原行思)は、吉州安城、劉氏の子である。行思は、諱(いみな−実名)で、青原は、住んでいたところの地名。吉州安城とは、現在の江西省吉安市盧陵県(こうせいしょうきつあんしろりょうけん)の出身。幼いときに出家する。先輩僧たちが、つねに「道とは」「悟りとは」「法とは」と議論しているところを、離れたところにいて、加わらずに黙っていた。
しばらくして、曹溪山(そうけいざん)の六祖大鑑慧能(だいかんえのう)禅師の修行の集まりを聞いたので、すぐに赴いて、六祖に出会った。お尋ねする。
「どういうことをすると、階級に落ちるのでしょうか。修行した結果、どういうことが悟りを得る、または迷い、邪見に落ちるのかをお答えください。」
その問いによって、六祖が「こやつ、なかなかだな。」と感じられた。


【機縁】A
會下(えか)の学徒(がくと)衆(おお)しと雖(いえど)も師は首(しゅ)に居(きょ)す。亦猶(なお)二祖の言はざれども、少林之を得髄(とくずい)と謂(い)うが如し。
一日(いちじつ)祖は師に謂いて曰く。
従上(じゅうじょう)衣法(えほう)双び行ず、師資(しし)遞(たが)いに授く。衣は以て信を表し、法は乃ち心を印す。吾今は人を得たり、何ぞ信ぜられざるを患(うれ)へん。吾れ衣を受てより以来、此多難に遭ふ。況や後代の爭競必ず多からん。衣は即ち留めて山門を鎮せん。汝、当に化を一方に分(わかち)て断絶せしむることなかるべし。


(筆者意訳)
六祖の指導に従う僧はたくさんいた。その中で、師(青原行思)はつねに首席であった。まさに、二祖の慧可さまが黙っていても達磨さまの法の真髄を映していたように。
ある日、六祖さまは師(青原行思)にいう。
鉢や、衣を法を伝えた証拠として渡すのはやめた。しかし「そのもの」(法)を断絶しないように。
それでは「階級」(評価ということ)という語句をどのように受け止めたらよいのだろうか。
「師曰く、聖諦すら尚お為さず、何の階級か之れ有らん。」
聖諦もなおなさず。このものが変化、進化、深化して、立派になるのではない、隔たりが無い。階級が無い。いままで、なにをやってきたのか。「得た」ということを認めると、「得る法」と「得られる法」の二つが出る。それは、境、際ができるということである。「いま、ここ」あるいは、「存在」は、
 1、 すでに具わっているもの(必然性のもの)
 2、 後天的修養によって得たものがある。
眼のハタラキひとつでも、
 @ 見える。A ぼんやり見える。B 見えない
というようにそれぞれがある。


【機縁】B
師、既に法を得て吉州(きっしゅう)の青原山靜居寺(せいげんざんじょうごじ)に住す。乃(すなわ)ち曹谿(そうけい)と同じく化を並べ、卒(つい)に石頭を接せしより、夥(おびただし)く曹谿の鱗下に投ぜしやから、踵(きびす)を継(つい)で来る。尤(もっと)も大鑑の光明とす。乃ち唐の開元28年庚辰12月13日、陞堂(しんどう)して衆に告(つげ)て、跏趺(ふざ)して而(しこう)して逝(せい)す。後に弘濟大師(こうさいだいし)と謚(おくりな)す。


(筆者意訳)
師(青原行思)は六祖様より法の証明を受け、故郷である吉州−現在の江西省吉安市盧陵県(こうせいしょうきつあんしろりょうけん)の青原山靜居寺を住まいとした。景竜3年(709)、師は37歳で、六祖様の亡くなる4年前であった。師はこれより32年間、多くの人々に正伝の仏法を明らかにしてきたのである。つまり、曹溪山(そうけいざん)の六祖慧能禅師と同じく、正法を伝えたのである。ついに、石頭希遷(せきとうきせん)という本物を仕立て上げた。禅宗第7祖として、正しく曹溪慧能の教えを伝えたので、大勢の人々が、この道(法)を求めて参集してきた。これこそ、大鑑慧能のおかげである。
六祖様は、行思につぎのようなことを話してくださった。
五祖様(大満弘忍禅師)とご自身が、師資(師匠と弟子のこと)ともに、法を得たことを、お互いに証明しあった。それまでのご苦心、法を得て、確実に心決定(しんけつじょう)し、ここまできたこと。
そしてその間、大きな苦難があったこと。
それは、神秀上座と自分(六祖様)との間でお互いに真相を示す偈を発表したとき、五祖様は慧能が真相を得たということを証明してくださったのだった。慧能が六祖様になったのである。五祖様は、お袈裟と鐡鉢(てっぱつ)を伝えられた。それは、確かに法を得たというしるしであった。
しかし、それが大きな誤解を招く元となってしまった。誤った思いにとらわれた人々は、「法を伝える」ということがお袈裟と鐡鉢を伝えることだと思い込んでしまったのである。
五祖様は、米搗(つ)きをしていた慧能が、みなに六祖様になったと知られととき、災難にあうのは明らかだとわかった。そこで、真夜中に慧能にお袈裟と鐡鉢を渡し、南方に逃げろと命じた。翌朝、すべてが知れ渡り、大衆(全修行僧)は大騒ぎをした。米搗きをしていた男が、正当な弟子のしるしである「大事なお袈裟と鐡鉢を奪って逃げた」ということになってしまったのだ。怒りと憎しみの炎で、見境なくなった多くの者が六祖様の後を追った。そのなかでも怪力豪腕の慧明(えみょう)という僧が、必死で追いかけ、六祖様に追いついてしまった。
慧明は、六祖様に向かって叫んだ。
「やい米搗き!そのお袈裟と鐡鉢を返せ!」
六祖様は、黙ってお袈裟と鐡鉢をそばの石の上に置いた。早速慧明が持ち帰ろうとしたが、何としたことかそれは動かない。ビクともしないのであった。後に慧明は六祖様の弟子となった。
この動かせないという事実は、どのように受け止めたらよいのだろうか。
たとえば、空で雷がなっているとする。家のなかでもよく聞こえる。耳をしっかりとふさいだらどうだろうか。雷は聞こえなくなる。ふさいだ手に隙間があると、かすかに聞こえる。これはすべて事実である。「聞こえる」という事実を動かすことはできない。同じく「聞こえない」「かすかに聞こえる」という事実も動かせない。事実は聞き手という(受け取り手)の問題であり、他人が動かすことができないのである。法は、すべての様子、ありさまという事実である。

(つづく)



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