W 独参(禅の小部屋から)


私が初めて、師家(指導者)の提唱をお聞きしたときのことです。
提唱が終わるや否や、聴講の修行僧が手を上げて質問しました。師家は後堂老師でありました。後堂老師は親切にお答えくださったのですが、あとでその修行僧が古参和尚から叱られているのが聞こえました。
「提唱は学校の授業とは違う。もし疑問があるのなら、独参しなさい。」
「独参」私は、そのとき、初めてその言葉を耳にしたのです。そして、師家の室に入り、一対一で自分の境涯を示し、師家に点検を乞うという意味もそのときに知りました。
ここでは、独参、禅問答とはなにかを考えていきます。禅問答には、独参のように一対一のものや、法戦式のように、大勢の前での公開問答もあります。そして恥ずかしながら私の拙い、独参の歩みも披瀝いたします。私が何に疑問を持ち、どういうことに迷い、いかなる誤りに陥ったかを正直にお知らせすることが、禅を志す人の参考になると信じるからです。同時に、いささか独参を受ける立場になったいま、質問の中で、ともに考えてみたいことがあります。
当然質問者の氏名は明かしません。個人的な事柄というよりも、誰もが抱く疑問が多く、名前は問題ではないからです。


古代ギリシャの哲学者ソクラテス(BC470か469−399)は、わざと無知のふりをする問答法によって、相手を真の知識に導いたといわれます(ソクラテスのアイロニー)。これに対して禅門の問答(法問ともいう)は、知識を伝達するのではなく、師家(禅の指導者)が、学人(修行僧)の見解(境涯)を取り上げ、自己を忘れさせる手段であります。
接化(導き方)の方法は、師家のキャラクター(個性)に負うところが多いのです。禅門には、「払拳棒喝」(ほっけんぼっかつ『普勧坐禅儀』)という言葉があります。学人が来れば有無を言わさず棒で打つ、拳を振り上げる。あるいは何を質問されても耳を傾けずに一喝したという歴史上の祖師もいました。また学人が気づくまで、どんな質問に対しても、いつも必ず払子を立てるだけ、親指一本立てるだけという無舌の説法者もいました。
『景徳伝灯録』(1080年刊行)中に、綺羅(きら−美しい衣服)、星の如く輝く祖師方の悟道(悟り)の機縁は、静中(坐禅)だけでしょうか。むしろそれは少数で、多くは動中(なにかをしているとき、なにかの縁を感じたとき、外部からのはたらきかけに五感が機能したとき)であります。ならば法問を機縁として、大悟するとはどういうことでしょうか。
そこに至るまで、志気と根気をもって修行(坐禅)を続けていた学人が、法問の縁により自他を分ける留め金をはずされたのです。
悟りの正しさを証明する法問もあります(青原と石頭や、百丈と黄檗の問答。いずれも唐代の禅師)。祖師方の生涯をかけた一句の応酬(けっして儀式ではない)は、後世になると、布教教化としての儀礼的禅問答(法戦式)に用いられるようになりました。
しかし真の理解は、「未だ是れ思量分別の能く解する所に非ず」『普勧坐禅儀』(自分の頭で理解しようとしているかぎり体得できない。認識以前のこと)であります。 
法戦式の首座と問者との問答形式には、一つの大きなパターンがあります。
先に述べたように法問は、首座が問者に対して、なにかを説法したり、指導したりするのではありません。師(法戦式では、首座和尚)が学人の境涯、境地を、それが正しいかどうかと点検することにあります。点検(取り調べ)して、問者が、いまだ捨て切れないモノ(考え)を持っていると知れば、問者の一番大切にしている考えやよりどころ(たとえば「悟りとはなにか」「禅とは〜」「自分は無我である」「自分というモノは無く宇宙と一体である等」など)、これが私のすべてだと、しがみついているものを奪い取ってしまうのです。
有名な問答に、
 問「何も持ち物がないときは、どうしますか」
 答「持っていないというコトを捨てなさい」
 問「しかし、持っていないのに、どうして捨てられますか」
 答「そんなに大事なら、いつまでも持っていなさい」
(意訳)
 問「もともと何もないコトがわかったときは、どうすればいいですか」
 答「何もないというコトを捨てなさい」
 問「何もないのですから、捨てるもの(払うべき塵)もありません」
 答「そんなに『何も無い』ということを有ると思っているなら、
   ずっと持っていたらいいじゃないですか」『五灯会元』(1253刊行)
この法問では、無一物という境涯を大事に持っていることは、ほんとうの無一物になっていないことを示しています。師は、問者から「無一物」という思いを取り上げて、真の無一物にしようとしているのです。
真の無一物とは、どういうことでしょうか。
眼や耳、鼻、舌のハタラキは、学習や訓練、練習、教育のたまものではありません。赤ちゃんはおなかがすいたら泣くし、ご機嫌がよければ笑う。だれかに習ったり、聞いたり、読んだり、教わったからできるようになったわけではないのです。それを本能という見方もあるかもしれません。しかし見える(見えない)、聞こえる(聞こえない)は、本能ではなく、視聴覚機関の働きです。聞こえた音によって、その一瞬、音だけになる。自分が、その一瞬無くなる状態であります。それが自分を無にする縁。お釈迦さまが明けの明星をご覧になったとき、自分が、いま、ここで見ているという意識がなくなり、縁そのものになったということです。
それを表しているのが、つぎの法問です。
 問「悟りを、ずばり一言でいうとなんですか」
 答「(見える、聞こえるについて)なんの意識も、さしはさむ前のこと」『趙州録』(1131〜1162刊行)


法問が問者の一番大切にしているよりどころを奪い取るという形式を踏まえているので、(師)首座は「賊(盗人)」と呼ばれます。禅門では、農夫の鍬、乞食の椀を奪いとるとも、真っ暗闇で唯一のたよりである蝋燭のともし火を吹き消されるとも譬えられるのです。さしずめ現代では、野球の打者からバットを奪う、現代人から、ケータイを奪うということでしょう。その人にとって本当に大事なものにしがみついているあいだは、死に切ることはできないのです。
禅問答では、「無一物、悟り、仏、法、禅、道」という言葉の指し示すモノは、一つです。しかし、先の例のとおり、それらを学人が何かに限定してしまったなら、違うといって否定します。また限定しなかったら「無限定としているモノ、コト」を取り上げるのです。「無一物、悟り、仏、法、禅、道」(自分自身)の実相(真の姿)は、無相(定まった形のないもの)ということがはっきりするまでです。


禅問答には不思議な力があります。それは、師家の力量によって現れます。師家は、優れた船頭とか、釣り師といわれます。たとえはあまりよくありませんが、エサをまけば、まんまと学人は引っ掛かるからです。師家の問答(手段)は釣り針だといわれるように、法問は誘導尋問でもあります。その誘導尋問に見事に吊り上げられたのが、私(筆者)です。
そのことは、これから少しずつご紹介します。
自分が、いまだ足りない、不満足の世界にいる様子には、皮肉骨髄を脱ぎ捨てたいようなもどかしさを覚えます。
ひとつわかったこと。世界は、人間の意識(好き嫌い、えりごのみ)なしに始まり、人間の意識なしにおわるだろうこと。いや、人間の意識がなければ、世界があるとか無いということも、問題にはならない。
正師による禅問答は、人間の意識の前、状態のことをいいたいのだということを。


1、独参法
独参は、正式には、入室(にゅっしつ。または、にっしつ)独参(どくさん)といいます。師家(しけ−禅の指導者のこと)が、学人(がくにん−道を求める人、修行者)を室内において所解(自身の見解)を出させ、それに対して、勘辨(かんべん−力量を判別)することをいいます。一人ずつ室に入り、師家と相対し、参師聞法するので独参というのです。略して入参(にゅっさん)ともいう。現代では、カウセリングのことと受け止める方もいるかもしれません。私は、カウンセリングについては無知ですので、その異同を述べることは差し控えます。しかし昨今は、僧侶でさえ、カウンセリングは受けたことがあるが、独参は安居中のほんのわずかしか経験がないという方も多いようです。
本欄では、入室独参の作法とその心得を学んで行きたいと思います。
私が入室独参(以下、独参)について教えをいただいた方は、元大本山總持寺単頭、故山本素鳳老師です。安居して間もないころ、新任の単頭として上山された、山本老師の最初の行者(お世話係り)という配役を頂戴しました。もとより修行のなんたるかも知らない私でしたので、行者がまともにつとまるはずがなかったのですが、山本老師は独参についても親切に細かく教えてくださいました。もちろん独参は作法だけでなく、内容が肝心です。計(はか)らい−限りなく起こり滅する考えや分別−をどうするか。また吾我、我見を断ち切る公案について、ご教示があったのですが、当時の私には頭の上を通り過ぎるばかりで、何一つ受け止めるだけの力も求道心もありませんでした。
本欄では、初めに山本老師より教えられた作法をお知らせし、解説を加えていきます。
とうぜん室内(師より弟子に伝えること)のことは、師家の家風(信条、方針、個性)によるものです。ここでは、できるかぎり広く示されているものをご紹介し、それが現代に生かすべき正法を探るための一例となることを目指しておりますので、ご寛恕願いたいと思います。
また独参の内容面についても、順次私の拙い経験を紹介し、ともに考えて行きます。


T 場所
とくに定めはありません。室中(通常、内陣東の間)、方丈の間、茶室、書院、離れ部屋、開山堂などさまざまです。ただし、個人的なこと(プライベートな内容)の話もありますので、他者に聞こえないことが絶対条件です。襖、ついたて、カーテン、障子など、遮音できない建具は避けることが肝要です。


U 服装
一般参禅者は、そのときの参加の服装で良いのです。絡子をお持ちの方は掛けてください。僧は塔袈裟(たっけさ)、著襪(ちゃくべつ)が基本ですが、坐禅中に独参に赴くというのが通常ですので、裸足が自然です。

(つづく)



目次に戻る