無題】                   東泉寺 住職 下室覚道

 私は子供の頃からヴァイオリンが好きで、今でも時々ギコギコと鳴らしています。ヴァイオリンはピアノと違って簡単に手でもって移動でき、小さな楽器ですがとても高価なものもあります。有名なストラディヴァリウスやガルネリウスなどは一億円の値がつくこともあります。単純な作りであるのに何故高価かといえば、音色もさることながら、200年、300年弾き継がれてきたという骨董的価値も付加されているからです。

 多くの方はこのような高価な楽器は手に入れることはできませんが、ストラディヴァリウスなど有名メーカーの出身がイタリアですので、「イタリア製」が憧れの楽器となっています。日本は特にイタリア至上主義が強いようです。イタリア製とラベルが書いてあるだけで他のものが見えなくなり、悪い楽器を購入してしまう例が非常に多いと聞きます。こういう私もそのような傾向があります。

 確かに、イタリアにはヴァイオリン作りの伝統があり良いものが多い。けれどもイタリア製だからといってすべてが良いとは限りません。プロの方云く、「国籍、年代、製作者、有名無名、価格といった楽器にまつわるもの一切を取り払い、重要なのは純粋に楽器だけを見てあげることが大切だ」ということです。同じ製作家であっても一つ一つに出来・不出来があるのは当然ですからこの言葉は当然でありましょうが、「ラベルを見ずに楽器だけを見る」これはなかなか難しいことです。

 道元禅師は『正法眼蔵』「現成公案」の巻に、

『人、舟にのりてゆくに、目をめぐらしてきしをみれば、きしのうつるとあやまる。目をしたしく舟につくれば、舟のすすむをしるがごとく、身心を乱想して万法を弁肯するには、自心自性は常住なるかとあやまる。もし行李をしたしくして箇裡に帰すれば、万法のわれにあらぬ道理あきらけし。』

と記されています。水野弥穂子氏は、「人が舟に乗って水上を行くとき、目を岸の景色につけてめぐらしてゆくと、岸が移動すると錯覚する。目を自分の舟そのものにつけて見ると、舟が水上を進んでいることがわかるように、自己の身心のあり方を正しく捉えないで、外にある万法について自分で判断を下していると、自心自性は常住であるかと間違える。もし、行李をしっかり見つめて、真実のあり方の中に置いてみれば、万法が一定のものでないという道理が明瞭になる」と訳しています。

 実際は舟が移動しているのに岸が移動すると誤ってしまう。本当は無常であり、無我であるのに、自心自性は常住であるかと間違えてしまう。先ほどのヴァイオリンの例でいえば、ラベルにまどわされて楽器そのものが見えなくなってしまう。このような習性はなかなか取り払うことが難しい。この習性のために、我々は苦しみが生ずるのです。

 どうにもし難いこの習性をどうすれば直すことができるのか。それには、たえず「物事の現れ方と、それが実際に存在しているあり方との間には相違がある」という懐疑的な眼を持つことが必要です。仏教の大原則は、「諸行無常」「諸法無我」「涅槃寂静」ですから、それと逆にものが見える時は、自己がおかしいと考えなくてはなりません。自分では「良いもの、美しいもの」或いは「悪いもの、汚いもの」と見えてしまう。しかし、実際は、或いは、本来はどうであるかと、自分に自問自答してみることが大切です。


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