わかるように書く 〜読書のすすめ〜        徳常寺 住職 新野利行

 今般、ようやく青年会HPのコラムを再開することになりました。

 このコラムのページは、我々青年僧がメッセージを発信する場として、また、布教教化の経験のため「文章を書く練習」の場として、前執行部が立ち上げたものですが、昨年5月の執行部交代によるHP編集作業の引き継ぎなどもあり、実に1年以上も更新が滞ってしまいました。今後は週一ペースでの更新を目標に、取り組んでいきたいと思っています。

 さて、今執行部では活動指針の一つとして「HPの内容拡充」を掲げ、全行事の報告記事を掲載しています。私も会の責任者として、編集段階で全ての文章や写真に目を通し、校正を行うほか、自身も「会長のコメント」と題して毎回寄稿していますが、こうした作業の中でいつも思うのは「分かりやすい文章を書くのは難しいなぁ」と言うことです。

 私自身、人に読まれると思うとついつい見栄を張って難しい言葉を使ったり、使い慣れない言葉のせいで妙な言い回しになってしまったり…。また、ワープロの賢い変換機能のお陰で、自分では書けないような難しい漢字ばかりが並んでしまい、「自分で書いた文章じゃないみたいだな…」と思うこともしばしば。皆さんも同じような経験がありませんか?(笑)

 先日、ある作家のエッセイを読んでいたら、ギクリとするようなことが書いてありました。

『文章とは言葉による意思伝達の手段なのだから、何を言わんとしているのかわからないのでは身も蓋もない。すなわち、いい文章はわかりやすい。古今東西、名文と言われるものにわかりづらい文章など、ひとつもないのである。

 さりとて、改まって文章を書こうとすれば、誰しもふと衒(てら)いが頭をもたげ、ともすると意思伝達どころか過大な自己表現になってしまう。あるいは、何とかわからせようと思うあまり修飾過剰となり、かえってわけのわからぬ文章になる。世に悪文といわれるものは、だいたいこの二通りである。

 ある程度の教養を身につけた人ならば、簡単なことを難しく書くのはいともたやすい。難しいことをいかに簡単に書くかということこそ難しいのである。思うに、文章作法というものはこれにつきるのではあるまいか。』(浅田次郎著「ひとは情熱がなければ生きていけない」より)

なるほど、ごもっともです。

 言葉や文章は、自分が相手に伝えたいことを表現するための手段であり、その「伝えたいこと」を如何に相手に分かりやすく簡単に伝えるかが大事なのであって、過剰な修飾や無理に背伸びをした表現はかえって文章を分かりづらくしてしまうよ、と言うわけですね。

 しかし、数ある言葉や言い回しの中から簡潔かつベストな表現をチョイスするためには、当然豊富な知識や語彙が必要とされるわけで、良い文章を書くためには、まずその知識や語彙の幅を広げなければならない、と言うことになります。

 今回、このコラムを再開するにあたり、既に数ヶ月先までの分の原稿を会員の皆さんに依頼してありますが、きっと「いやだなぁ」と思っている方も多いはず…。

 文章を書くのが苦手と思っている同輩の皆さん、まずは本を読みましょう!

 物書きのプロの方が書いた文章には、我々が参考にすべき素晴らしい言葉や表現が無数にあり、それらを読み、知り、憶える事によって、やがてその言葉や表現は自分の物となります。パソコンやテレビに向かう時間、漫画を読む時間を少し削って、1日10分でもいいから本を読んでみませんか?


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