「癒しの時代」と言われるようになってから随分経ちますが、いまだに癒しを求める人は絶えません。
バブル崩壊後の90年代後半、仕事や人生に疲れた人々が癒しを求めました。それまで、がむしゃらに働いていた人達は、支えを失った「こころ」の安定を求めてあらゆる方法を探し、坐禅もそのジャンルに入っていたりしました。現在は「癒し系」などといって、ひとつのカテゴリーとなっています。
ただ最近、私はこの言葉を耳にすると、なんだか違和感があるのです。
あの当時大学生だった私も、流行に流され癒され放題でした。部屋では耳に優しい音楽を聴き、心落ち着くアロマを焚き、観葉植物まで置く始末。もう完全にどっぷり癒されていたのであります。
しかし、最近ふと思ます。「そんなに疲れてたっけ?」と。
ストレスの無い人はいないだろうし、疲れはためてはいけません。現代人の病気の原因の多くに、ストレスがあげられるそうです。疲れをためない生活習慣は必要であろうと思います。
しかし、がんばった人が癒されるならいいのですが、疲れてもいない人が癒されていたら、これはただの怠け者です。私の感じる違和感というのは、癒しそのものよりも、「いつからそんなに人は疲れやすくなったんだろう?」ということです。人が本来持っているであろう「生きる力」のようなものが、人類の進化と共に、失われていっているような気さえするのです。
時には自分で自分を励まして、がむしゃらに突き進んでみるのもいいのではないでしょうか。長くつづく「癒しの時代」に別れを告げて、新たに「励ましの時代」というのはどうでしょうか?
最後に個人的に好きな詩人である、茨木のり子さん(1926〜2006)の詩を紹介します。
『自分の感受性くらい』 茨木のり子
ぱさぱさに乾いていく心を ひとのせいにはするな みずから水やりを怠っておいて
気難しくなってきたのを 友人のせいにはするな しなやかさを失ったのはどちらなのか
苛立つのを 近親のせいにはするな なにもかも下手だったのはわたくし
初心消えかかるのを 暮らしのせいにはするな そもそもが ひよわな志にすぎなかった
駄目なことの一切を 時代のせいにはするな わずかに光る尊厳の放棄
自分の感受性くらい 自分で守れ ばかものよ |