【重陽の節句に思うこと】         金龍院 副住職 大島 英信
 最近、パワースポットと称される神社仏閣に参詣し、みずからの願いが叶うように祈り、心の癒しを求める人が増えています。


 その一方で無縁社会と言われる殺伐とした言葉に表されるように、人生の最後を淋しく迎えながら、丁寧な見送りもされずに亡くなってゆく人も増えています。


 このような時代が今までにあったでしょうか?


 古来より菊が咲く季節に「重陽の節句」という、邪気を祓い無病息災を祈る風習があります。


 現在ではあまり重視されていない習慣になってしまっている感がありますが、かつては家族や地域の人々が集まり、お互いの日々の健康を祈りました。


 その、こころのDNAを受け継いでいるはずの現代の私たちに言いたい。
「自分のことだけ考えず、周囲の人々に笑顔を与える行動をすれば幸せになれます。」とね。



 先日、幕末の時代に日本へやってきた、欧米の外交官の残した記録をテレビで見ました。その中の言葉に、「我々の国民と違い、日本の人々は悲壮感もなくユーモアにあふれ、生活の苦しさを微塵も感じさせることがない。」と残しています。


 百数十年前は今より、人と人とが助け合っていたという事なのでしょうか?現代の私たちは生きていくための価値観が変わってしまったのかもしれません。


 僧侶にとっても厳しい時代と感じています。でも私は、かつて祖師方が布教した頃の考え方に戻して、地道に歩いていけば人々の心もまたお寺に帰ってくるのではないかと希望を持っているのです。


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