【感謝するこころ】           永昌寺 徒弟 星野 英明
 このたびは、千曹青のウェブページにコラムを投稿するというお話をいただきまして、ありがとうございます。青年僧として普段考えていることを述べてみる、という趣旨がすばらしいものに感じて、常日頃は僧侶としてより、教員としての生活の側面が強い私にとっては、自分の、僧侶としての側面を改めて考えてみるよい機会になると思ってお引き受けした、という理由がありました。


 しかし、やはり考えることは、というと、教員の生活の方から入ってくる情報をめぐって、ということになりがちです。1月15〜16日に実施された大学入試センター試験の、古文の問題は「保元物語」からの出題でした。後白河天皇側で勝利した源義朝が、崇徳上皇側について敗北した父の源為義に対面する場面を描いた部分が出題個所でした。


 義朝は、結論としては父を討ち果たそうという意図を持ちながら、父に対し、朝廷は父上の首をとって参れと言いますが、今回のいくさの恩賞と引き換えに父上の命乞いをいたしましたので、東山に私が持っている庵で余生をお過ごしください、と申し出ます。それに対し父の為義は「涙をはらはらとこぼして『あはれ、人の宝には、子に過ぎたるものこそなかりけれ。子ならざらん者、誰かはかく身に替へて助くべき。生々世々にもこの恩忘るまじきぞよ』とて手を合はせ、喜」ぶのです。


 恩、と聞くと、子や弟子(教え子)が、親や師といった目上の者、あるいはそこから与えられたものに対して抱く感情、というのが一般的だと思うので、このように親が子に対して恩を感じるというのは、確かに命拾いをさせてくれたわけですから恩を感じて当然といえば当然なのですが、少し奇異に感じもします。


 以前勤めていた学校に、母親が東南アジアの出身で、ある程度の年齢になるまでその国に住んでいた、という生徒がいました。日本に住むようになって同年齢の子を見て思うことってある?という質問をしたとき、日本の子どもは親に感謝する心が少ない、という意味のことを言っていました。たしかに、日本では、親に恩を感じる感覚が失われて久しいと言えるでしょう。


 しかし、教員をやっていてときどき思い出す言葉に、子は親のかがみ、というのがあります。語弊があるかもしれませんが、きちんとしている印象を持つ生徒の保護者は、やはりちゃんとした方であることが多いと思いますし、あれ?ちょっと…、と思うようなお子さんの親御さんは、やはりお子さんと共通している所が多い、と感じます。恩、というものを、感謝すること、と言い換えても良いのであれば、子どもに感謝の心を持てない大人が、話が乱暴かもしれませんが、子どもに感謝されることは少ないのではないか、と思うのです。それは常に相互的な関係の中で育まれるものなのではないか、と思うのです。大人も子どもに、子どもも大人に、大人も大人に、子どもも子どもにそういう感情をゆたかに持つことができればいいんだがな、という、ただの感想になってしまいましたが、そんなことを先日思いました。


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