第1回定例会
(梅花練習・東京大空襲 戦災資料センター)

 平成26年6月6日(金)、会員14名参加のもと、東京都江東区の東京大空襲・戦災資料センター見学に行ってきました。

 10時に宝成寺に集合し、今年度の第1回目の梅花練習を房田清光師を講師として、10月の第18回梅花流千葉県奉詠大会でお唱えする「追善供養御和讃」「追善供養御詠歌(妙鐘)」の練習をしました。追善供養御和讃を全体でお唱えをしたあと、経験者と初心者に分かれ、初心者は房田清光師。経験者は庄司徳潤師を講師として、班ごとに追善供養御詠歌(妙鐘)を重点的にお唱えしました。拍と音程が難しく、一節ずつ丁寧にお唱えをし、耳で覚えるよう練習を重ねました。
 梅花練習後、宝成寺を出発し、東京大空襲・戦災資料センターに向かいました。当日は梅雨入り後ということもあり、大雨の中の見学となりました。

講師 房田清光師  梅花練習風景

臨時講師 庄司徳潤師  経験者の梅花練習風景

 東京大空襲・戦災資料センターとは、もともと「東京空襲を記録する会」として1970年より空襲・戦災の文献や物品を収集していました。しかし、1999年に東京都の「平和祈念館」建設計画が凍結されてしまい、「記録する会」と財団法人政治経済研究所が、やむにやまれぬ思いで民間募金を呼びかけ、4000名をこえる方々の協力によって、2002年3月9日、戦禍のもっとも大きかった地にセンターを完成させることができたそうです。現在では、修学旅行生や若い世代の「学びの場」としても、多くの方が活用されているそうです。
 到着してまず、自身も空襲の体験者であります講師の二瓶治代さんからご挨拶をいただき、その後「NHK特集 東京大空襲」の映像を見ました。その映像には、なぜ東京のこの地区が空襲にあったのか。という問いかけから始まりました。
 東京大空襲は、たまたまその場所が空襲にあったわけではなく、その町に住む人々の生活形態や、季節風による火災の延焼、また、1923年に起きた関東大震災による火災から避難する人の動きまでもが研究され、計画的な空襲であったというものでした。

私たちが想像を絶する事実を後世へ語り継ぐ  NHK特集 東京大空襲を見る会員

二瓶さんによる当時の状況説明  当時の写真を見る会員

 映像を見た後に、講師の二瓶さんから当時の詳しい状況を聞くことができました。1945年3月10日の未明、約300機のアメリカ軍爆撃機B29による爆撃で推定10万人の尊い命が奪われたという事実。東京が100回以上も空襲をうけ、市街地の5割を焼失していたという事実。一晩でこれだけの人が犠牲になる事例が、世界的にも稀であるという事実。どれも学校の教科書では習っていたはずですが、二瓶さんの口から語られる内容は、私たちの想像をはるかに絶する状況だということを、知識としてではなく、空襲の戦禍を生き抜いてこられた体験者の「声」として聞くことにより、改めて痛感することができました。
 お話の後に、同じ会議室の中に展示されていた資料を見学しました。その中には東京大空襲により日本が被害を受けたものだけでなく、日本が今まで戦争で侵略した国の人々の写真も、同じように展示されていました。「戦争」で被害をうけた日本としてだけではなく、加害者としてもどのようなことをしてきたのか、という事も忘れてはならないことだと感じました。

集束焼夷弾の原寸模型  焼夷弾の恐ろしさを伝える

積み上げられた焼死体の写真に絶句する  講師の二瓶さんに質問する山高信厚師

 3階では、当時の焼け焦げた衣服や戦時中の新聞など、実際の資料を保管されているところを見学しました。部屋に入り最初に目についたのが、集束焼夷弾の原寸模型でした。講師の二瓶さんから、「空中で外殻が外れて38本のM69焼夷弾がばらまかれる。」と、焼夷弾の1本を手に取り詳しく解説してくださいました。
 また、映像で見た中にもありましたが、空襲後の焼け野原の様子や、積み上げられた犠牲者の山、流れ着いた犠牲者で埋め尽くされた川、姿かたちを残したまま黒い塊となって道路に横たわって絶命している写真等が展示されていました。また、焼夷弾を受けた時の治療法の冊子や、「炭になって」といった詩なども、とても印象深いものでした。

焼夷弾をうけた時の治療法の図  炭になって 永井和子氏

 資料館見学後に、講師の二瓶さんから「最近もニュースを見ていると、人の命が軽んじられているような色々な事件があり、本当に悲しいことだとは思います。しかし、あの戦時中の出来事よりひどいことは、現代にはないように思います。絶対に戦争だけは繰り返してはいけないのです…」と、私たちに問いかけるようにお話していただきました。
 昨年の青年会国内旅行でも、長崎の原爆資料館を見学してまいりましたが、「戦争」というと、どうしても「広島」「長崎」という原爆の被災地を思ってしまいます。しかし、私たち千葉県民からしても、身近でそんなことが起きていたという事実を文献だけでなく、戦禍に巻き込まれた方の話を聞くことにより、より深い見聞を広めることができたのではないかと思いました。

講師の二瓶さんと集合写真

 この度、会場としてご協力いただきました東京大空襲・戦災資料センターの皆様、講師として貴重なお話をしていただきました二瓶治代様には、心より御礼申し上げます。また、雨の中御参加いただきました会員の皆様、本当にお疲れ様でした。


〜参加者のコメント〜


『語り継ぐべきこと』

 周りの壁に空襲の写真や絵画を掲示してあるセンターの2階にて、ご用意いただいたスクリーンに流れるNHKの作成した東京大空襲の資料映像を閲覧させていただいた後、ご案内いただいた方から様々な説明をいただきました。

 義務教育を受けた時の知識としてくらいにしか惨劇を知らなかった自分にとって、実際の戦火の中を逃げ、生き延びた方のお話は胸が詰まる思いでした。

 自分の祖父や祖母に戦時下の従軍のことや戦後の生活の話を聞いたことはあっても、空襲によって奪われていく命を目の前で見ることになった方のお話を聞いたことはありませんでした。

 「焼夷弾から放たれた炎が流れるように走り人を物を燃やす、防空壕に避難したまま一酸化炭素中毒や蒸し焼きとなった、両の岸に逃げ場がなく橋の上に集まってしまった人々に弾が直撃した、地上の遺体は焼け焦げて炭となって判別ができず川に落ちれば積り積もった遺体にぶつかり合う…」逃げまどう人々の中で名前のわかった方およそ一万人(死者約十万人)がどのように逃げてどこで亡くなられたかを示す資料の前でしていただいた補足のお話、忘れることはないでしょう。

 3階に上ると、実際の焼夷弾の模型や灯火管制下の暮らしぶりを再現した区画があったりとたくさんの展示物が並んでいました。私はその中で『燃え尽きた地でゴミを集めて仮の家を作り生き残れた家族で笑い合っている写真』を見て、邪推ながら、写っている家族の『笑顔』が気になってしまい、近くにいらした体験者の方にさらにお話を聞かせていただきますと、その方も「プロパガンダがあったと思わざるをえないんです。」とのお考えでした。「でも、心から笑いあえていてほしい」という思いはお互いに同じでした。

 その後も、戦災孤児となった方々のご苦労のお話などを個人的に聞かせていただき、あらためて、戦争がもたらすものが悲しみばかりであると感じました。

 戦争を知らない我々も先人たちの教えを胸に、日々平和を愛することを忘れない。
 大切なことを再認識し、勉強させていただいたことに感謝いたします。

興陽寺 副住職 山高 信厚 合掌



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