V 伝光録


1・成立

『伝光録』の章立ては、1仏52祖から成り立っています。1仏は、釈迦牟尼仏。52祖とは、摩訶迦葉尊者から孤雲懐弉和尚までです。
つまり『伝光録』の仏祖方の数え方は、釈尊を首章として、摩訶迦葉尊者から(1)と数えます。つまり釈尊を抜かして、摩訶迦葉尊者が一代目として、達磨尊者(28)までのインドの祖師28名です。達磨さまは、禅門では中国第一祖(震旦とは、中国の意味)と数えますが、インドの祖師です。
中国の祖師は、29祖の大祖大師から、50祖の天童浄和尚までの22名です。日本の祖師は、道元和尚、孤雲懐弉和尚の2名。つまり、釈尊1、インド28、中国22、日本2で、53代の仏祖(1仏52祖)です。


※注意
釈尊を(1)と数え、般若多羅尊者(27)までをインドの祖師と数えると28名。達磨尊者から、天童如浄和尚までを中国の祖師と数えますと23名となりますが、この数え方を『伝光録』では用いません。例としては、インドの祖師は「尊者」で統一。中国、日本を和尚という呼称で統一しております。
『伝光録』は、釈迦牟尼仏より西天東土日域(インド、中国、日本)を一筋にした孤雲懐弉禅師までの53代(インド28人、中国22人、日本2人=1仏52祖)にわたる仏祖の略伝と伝法の機縁(いきさつ)が記されています。
主題は瑩山禅師ご自身の拈提評唱(解説)であり、それに付け加えられた二句または四句の頌古(悟りの境地を漢詩にあらわしたもの)が、法のすべてを明らかにしています。
法とは、漢字の元の意味としては「公平に罪を調べて有罪者を罰する意」があります。しかし禅の意味としては、すべて、ありのままの姿を「法」という字で説明します。法とは「さんずい」に「去る」という字を書くように、「さんずい」は水、「去る」は水が流れ去る様子と同じで、常に変化する。中心がなく動いていく様子です。
お釈迦さまの最後の遺言は、「法をたよりとしなさい」です。この世の中、自分も含めて、すべて中心がなく、移り変わっていきます。
何かの働きにより、法は起きて、働きが無くなれば、やがて消えます。
私の心の苦しみに、中心があると思ったら、そんなものが何もない。このことに目覚めなさい、ということです。
「法」を「光」と置き換えた書名が、『伝光録』の由来です。


2・『光(法)』を伝えるとはどういうことか

『伝光録』の指し示す「伝える」「あたえる」「うける」「授ける」とは、どういうことでしょうか。つぎの引用は、「伝えるものなし」としている瑩山禅師と大智禅師(1289〜1366)の問答です。
大智禅師は、永平道元―孤雲懐弉―徹通義介―瑩山紹瑾―明峰素哲―祇陀大智とつながるお方です。


瑩山禅師「子の父に就く時如何」
    (子が父と同じになったというのは、どういう時か)
大智禅師「古鏡台前燈を借らず」
    (古鏡[諸仏]と古鏡[諸仏]がお互いに相照らす時、別に灯火を持ってくる必要はない)


続いて同じ主題の大智禅師偈頌2編を紹介いたします。
 世尊 拈出す一枝(いっし)の花
 迦葉 無端(はしなく) 眼(まなこ)に沙(すな)を著く
 四七 二三 寐語(びご)を伝ふ
 青天白日 人を艀(まどわ)すこと多し [17]「拈華話」


【現代語訳】
お釈迦様から、迦葉さまへの法の伝わり方は、ただ一枝の花を差し出しただけ。
じっさいは、迦葉さまの目に沙(すな)が入ったようなもの。(すると見えなくなる)
4・7(28代)、2・3(6代、震旦6祖)伝えようの無いこと(寝言)を伝えた。それがあまりにも明らかなので、かえって人を惑わした。


両處の住山三十年
會(かつ)て一法も人に與(あた)へて傳(つた)うるなし
虚空吐出す広長舌
雨のごとく罵り風のごとく呵す不説の禅  [191]「洞谷和尚を悼む」


【現代語訳】
瑩山禅師は、永光寺と總持寺に住職して30年となる。
諸法の実の相(そのままの姿)が法であり、それで完結している。禅も悟りも特別に切り離された現象や境地ではない。だから法は、人に与えることもできないし、人から受け継ぐこともできない。虚空が吐き出すものを吸い込むことができるかね。禅を説いたら、禅でなくなるぞ。

(つづく)


3・世に出たいきさつ

彦根の清涼寺さまは、幕末の彦根藩主、井伊直弼公の菩提寺です。井伊公は、江戸幕府の大老職でもありましたが、井伊大老の参禅の師匠が仏州仙英和尚です。
仙英和尚が善知識(優れた禅の指導者)を訪ね、諸国を行脚していたときのことです。ふとしたきっかけで、一人の旅の僧と出会います。旅僧はこんなことを言いました。
「私は、雲水として行脚しておりますが、すっかり路銀が尽きてしまいました。ここに幾種類かの祖録があります。もし尊公の欲しいものがありましたなら、買ってもらえないでしょうか」
旅僧の差し出した祖録のなかに、『伝光録』写本5冊があったのです。仙英和尚は、いくばくかの金を差し出したところ、旅僧は、たいそう喜びました。
写本を入手した仙英和尚は、『伝光録』の開版を発願します。


私(筆者)は東京、神田神保町の古本屋街を歩くのが好きです。あるとき岩波文庫専門の古本屋さんの書棚をなにげなく眺めておりました。そこに、背文字がやっと読めるような、擦り切れた一冊の古本を見つけたのです。それが『瑩山禅師 伝光録』でした。奥付をみると
(昭和19年9月10日 第一刷発行。校訂者 横関了胤 15,000部発行 定価 壱圓拾銭)
15,000部というのは、当時の全国曹洞宗寺院数とだいたい同じでしょうか。太平洋戦争の激しいころ、この『伝光録』が発刊されたということに感激した私は、この機会を逃してはいけないと思いました。こういうときに躊躇するのは、後悔につながります。売値は1万円でした。値段は問題ではなかったのです。

(つづく)




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